大切だから、消えてしまうんじゃないかって思うんだ


   015:人の波に消えてゆくような儚いものだけを持っていた

 轍をくっきり残す土道は乾燥して白く固まり砂塵を散らす。連続した機械音を立てて走る車両や人力、大小さまざまな平行線が幾筋も引かれてその上を人々は平気な顔で歩いた。痕跡が残ってもそれを圧倒的に多い人々がなんの意識もなく踏み消しては足痕をつける。夜市でもないのに店や市が立ち、規格外も取り扱う。時節ごとの行事が近づいたこの時期は人々もどこか忙しなく、無意味な損失を避けるために鷹揚にもなる。葛がペンを止めるたびに愉しげな笑い声がする。客あしらいは基本的に葵に任せてある。愛想がいいし人懐こい容貌でもあるので相手に無駄な威圧感を与えない利点があった。格式を重んじる客層であれば葛が相手をする。互いの性質を知るにしたがってそういう振り分けが行われた。
 葵の口調は軽妙で、軽薄さとは違う。意見を譲らぬのは頑固と言うより意地に近く、わりあい妥協する。応接に座ってこそいるが客に明確な購買意欲はなさそうだ。それでも葵は無駄話を愉しむように相手をしている。化粧も艶やかにフリルやレースをあしらったスカートを翻させて客は長居をしたわねと席を立った。葵は恭しく硝子戸をあける。満足げに出ていく最後に、また来るワ、と上がり調子の言葉を言った。話し言葉はその対象の階級が明確に判る。古式ゆかしい家柄と成金はやはりどうも雰囲気や言葉の端々が違う。
 客を見送って硝子戸を閉めた葵はやれやれと肩を落とした。
「ずいぶんと楽しそうだったわりにお疲れだな」
葵の眉がピクリと片方だけ跳ねる。葛は帳面に目線を落とし、中断していた作業を再開した。付けペンをわざわざ使っている。インク壜へペン先を浸しては流麗な文字は帳面に描き出されていく。訳もない苛立ちが葛の裡を灼いた。葵の屈託のなさは交友関係の広さとも比例した。写真館を始めるときの挨拶回りでさえ危うい葛と違って葵は思わぬ位置に知己がいる。葵は手より先に言葉が出る性質だ。だからと言って非力であるとか憶病であると言うわけでもない。思ったことを率直に口に出すのだ。もめ事も多く起こしている。それでも治らないし直す気もなさそうなので、葛は葵とはそういうものだと割り切っている。つもりだ。
 がたがたと建てつけの悪いような音を立てて椅子を引き寄せた葵がカウンターを挟んで葛の向かいへ座る。葵の理知的な榛色の双眸が葛を見据える。襟足を短く刈りあげた葵の肉桂色の髪がどこからか吹きこんだ微風に揺れた。仕事の邪魔にならぬ気遣いか、葵は組んだ両腕を椅子の背もたれへ乗せている。頬杖のように唇や顎がつきだされるがそれは体勢の問題だ。葵は逆撫ですることさえもきちんと承知の上でやっている。判っているから葛も手加減しない。処理済みの書類の束で葵の顔を殴打した。
「いった! 痛いってそれ! 紙って切れるんだよ、判ってる?」
「客あしらいの名目で長椅子の上で昼寝する奴に文句を言う資格はない」
葛の台詞に葵がふんと鼻を鳴らした。にゃあと口が裂けるように笑み、眇められた目が試すように葛を見ている。
 「だって葛ってば昨夜は激しいからさぁ」
オレも結構疲れてんだけどな。顔から火を噴く思いに葛の手元が狂った。葵と葛は同居に当たって決まりごとを設けた。炊事や掃除洗濯に始まり、個人的な場所や仕事上の役割の振り分け。そして、寝床を共にすること。抵抗がなかったと言えば嘘になるが、本業の関係上、もつれやすい交歓は疎まれた。双方の妥協案としてお互いを相手に熱の発散を行う。だがそこの恋情が伴うかは別の話だ。
 射しこむ日差しに葵の双眸が榛から肉桂へ色を変えた。遠くを見る横顔は友好的に端正だ。声をかけ近づき触れられる美しさだ。葛は違うと言われる。お前は綺麗だ、でも触れない。誰に言われたかどんな状況であったかさえ覚束ないのにその言葉だけが葛の中に沈んだ。
「葛、また来るわよってセリフってさ、もう来ないよってことだと思わないか」
「そういうものは社交辞令だろう」
「でもオレはまた来るって言って来た男を知ってる」
「誠意があったんだろう」
振り向いた葵の顔が切なく笑う。しなやかな豹の躍動を備えた葵の空気が不意に弛んだ。意志の強さのようにくっきりとした眉が少し下がる。開いた眉間と眇められた肉桂の双眸は、やるせないような何とも言えない色を映している。葵の唇が薄く引き延ばされて笑みをかたちどる。化粧筆で刷いたように一筋がぴんと長い睫毛。その眼が、怒っている。苛立っている。締め付けられている。
 「どうして誠意って、人に見えないんだろうな。みえたら、きっとさ、もっと」
葵が顔を伏せた。椅子がギシギシと負荷に耐えて軋んだ音を立てる。葵の反応が早いのは見えるものを信じているからだと葛は思っている。だからこそ見えないものにこんなに不安定に揺らぐ。
「見せつけられておしつけがましい誠意は要らん」
インク壜からペンを抜く。筆記作業は終わっていて、葛は水分をわずかに含ませた反古紙でペン先を念入りに拭った。その手を葵が不意に取った。尖ったペン先さえ気にせずにぎゅうと握りこむ。ぶつ、と切れた音がして緩やかに紅い筋が葵の手首を伝っていく。ペン軸を握る葛の手のくぼみや谷間にも熱い紅が溜まっていく。
「なにをして…――!」
葛は強引に手を解こうとする。だが葵の手が動かない。葛とて軍属であった経歴に違わぬ力を有していると自負している。だが刹那に葛の中を駆け抜けたのは物理的な腕力や握力の強さではなかった。
 人は平素からある程度の抑圧を受けている。常々全力で挑んでは暮らすだけで身が参る。限界線を無意識に引いて、人はそこからはみ出ないよう怯えて暮らす。これ以上やっては体が毀れると言う臨界点。恐怖や痛みや嫌悪は肉体の損壊を防ぐ本能行動だ。葵の解けない手の中でずぶずぶと鋭利なペン先が埋め込まれていく。紅い珠であった出血はすでに流れをつくり葵の肘まで伝う。まくりあげたシャツの白地に絞り染めのように紅い華が開きだす。退こうとする葛を阻むように葵の爪が立てられる。皮膚を擦り策そこはじくじくと痛んで血がにじむ。
「あおい?」
「……ごめん、すこし、ここままでいさせて」
葵は俯けた顔を上げない。骨の目立つ手ばかりがきつく握りしめる。ぱたぱた、と落滴の音がした。床へ沁みて灰白の染みはすぐに消えてしまう。けれどそれはいつまでも葛の意識に残った。
「甘ったれてるって判ってんだ、でも…でも、せめて理由がなかったら、オレの泣くことって、なんだかさ」

理由のない切なさや哀しさや愛しさや苦しさや嬉しさや。
熱い滴が双眸から溢れる。証のように。

「痛いから泣いてるって、事に、して?」
葛は椅子を蹴立てた立ち上がると渾身の力で覆いかぶさって握りしめる葵に手を解いた。葛の指の関節や手のひらまできつく握られて白くなっている。葵の手が突き刺さったそこを起点に紅色が広がっている。
 しなった葛の手が葵の頬を平手打ちした。椅子ごと倒れる葵の上へ葛はゆっくりと回りこみ、見下した。脚の間へ位置を取らせるあたりに、次に何をするつもりかが見て取れる。ふつふつとした怒りは徐々に脳を灼いてやり場のないやるせなささえ混じる。解決できない苛立ちを怒りに変換するのは簡単だ。抑圧しようと思う理性と憤りのままに葵を叱責したい感情とかせめぎ合う。ふーッふーッと獣のように葛の肩が上下した。利きすぎる抑圧が暴走しかねない熱さえ押されている。感情に蓋をするのは簡単だ。見ないふりで済む。だが、許容量を超えた時、その前兆が読み取れない分被害は甚大になる。
 身じろいだ葵の手の平でざら、と砂混じりの絵具のように掠れた紅い線が奔る。葵は暗紅色の手を見せた。みるみる傷口から血がにじむ。手首の溝をたどり肘のくぼみへ溜まりながらまくりあげられたシャツを紅い濃淡が染めていく。葵の目元がぴくぴくと震える。痛みによるものなのか情緒から来るものなのかは葛には判らない。必要もない。二人が属する団体において緻密で正確な連携と作戦成功のみしか求められない。至る経緯や個人的感情の軋轢はまったく考慮されない。その淡白なだけの関係で、必要があれば肉体にも及ぶだろうと予想はしていた。だが葛をたじろがせたのはその交渉の余波が想わぬ深部にまで至ったことだ。依存の心算はない。それでも葵が、いなかったらと思うと。
 想いだった。好きかもしれないし嫌いかもしれないし憎悪かもしれない嫉妬かもしれないし。それでも葵がいなくなってしまったらさびしいと思うほどに葛は、軍属時代に磨滅した感情を回復させている。
「痛みが欲しいなら、俺がお前に痛みを与えてやる」
シャツの釦を弾き飛ばす勢いで襟を開く。育った階級が判るように滑らかそうで白い皮膚。傷一つない。葵は愉しげに笑うと脚を開いた。
「ここは人が多いからさ、すぐにオレがオレじゃなくなっちゃうんだ。お前が、オレである証をくれるなら」
「黙れ」
唇を吸う。諜報活動の多いわりに華奢な体躯を抱きながら、葛はこの背骨は抱擁の力を込めれば砕けてしまうのではないかと思った。葵の手の平が紅い。それは残酷に美しい。紅い花の咲いたような手に指を絡ませて握った。
「かずら」
熱い。血液は熱を帯びて葛の皮膚を汚す。平素何事もなく装う葵の深淵がのぞける。葵は自嘲するように笑んだ。唇が弓なりにそって、裂けるように開いて白い歯が覗く。 
 葵の手がゆるゆると降りていく。その絵tが葛の喉を撫でてからボタンで止まったシャツ越しに胸を撫でる。
「泣く理由が欲しい。だってオレは今何も持ってないんだ。明確な論拠さえオレにはないんだ。父なし児って、そういうもんだろう」
「留学経験のあるわりに案外狭量だな」
葛の唇が葵の喉を食む。
「だがそれもまた、方法の一つだ。卑屈になることはない」
ざわりと、葵の手がもがく。掠れた紅い線が何本も床を汚した。葵の頬を幾筋も落涙の痕が伝う。

「大切だと思うものほど、証を立てるのは苦労するものだ」

葵の腕時計の盤面の硝子が、きらりと夜半の月光を反射した。


《了》

だから中断するのやめなさいね! とりあえず誤字脱字がないといいなーと思います…
葛と葵は描いていて楽しいなvv             2011年6月13日UP

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